東京豊島青果株式会社

■社長よりご挨拶

■真実は現地にあり

食の多様化が進む今日、青果物流通におきましても自然の流れとして多様化が進んでおります。

多様な食は豊かさの象徴である一方で、限られた情報しか持たない消費者の視点に立つと、食の安心・安全が揺らいでいる側面が目立ちます。

市場の取扱量自体は減少傾向が続いておりますが、安定供給システムおよび情報の集積地として我々が果たせる役割は増しこそすれ、減ずることはないと自負しております。

都民の食を「支える」企業であることに留まらず、消費者と生産者を「つなぐ」、自ら情報を「発信する」企業を目指しております。 この変化に対応するため、営業活動にもより高度なスキルが要求されます。

「常に自問自答せよ」の当社社是を常に意識しつつ、後進の教育・育成にも努め、社員一同団結し、楽しみながら日々の業務に取り組んでまいりたいと思います。

代表取締役社長
小泉 雄太郎

■旭の由来

会社設立の際、今まさに日の昇るさま、つまり昇天の勢いで会社が発展するよう、期待を込めて会社の冠としたのが旭の由来です。

その中で
「常に自問自答せよ」

「お客様にありがとうと言われる会社になろう」

「真実は現地にあり」

という3つの社是を意識しながら日々の業務に取り組んでおります。
屋号

■駒込土物店(こまごめつちものだな)〜旧中山道〜豊島青果のルーツ

豊島市場の前身は駒込青果市場ですが、その起源は元和(1615〜24年)と言われています。

駒込の農民が毎朝、青物を下町へかつぎ売りの途中、駒込天栄寺境内のさいかちの大木で休憩していると近隣の人々や通りがかった人々が野菜を買い求めて集まるようになりました。

そこですぐに野菜の売り買いを仲介する者が現れ、市場が形成されていきました。
良質な名産品の駒込なす、にんじん、ごぼう、大根、芋の他、土のついた野菜が持ち込まれたので「駒込辻のやっちゃ場」、「駒込土物店」と呼ばれるようになりました。

やがて神田、千住の両市場とともに青物三大市場のひとつに数えられ、幕府の御用市場として栄えました。
その後、明治には駒込青果市場となり、昭和12年に豊島区へ移り、東京中央卸売市場豊島分場として開業したのが豊島市場並びに豊島青果の原点です。

さらに現在、豊島市場のそばにある巣鴨地蔵通り商店街(旧中山道)にも青果と深い関係があります。

江戸の発展に伴い、中山道の往来が盛んになると、訪れた人々が畑や農家の庭先でみる立派な大根やごぼうを見て、その種を欲しがるようになりました。

中山道に近い滝野川村の農家が副業として種屋を創業し、参勤交代の大名、家来や旅人が土産として地方に種を持ち帰るようになります。
大きな種問屋街を形成し繁盛するようになりました。

ここから練馬大根、滝野川にんじん、滝野川ごぼうなどの多くの種が日本全国に渡り、その土地で改良されながら現在に至るまで栽培され続けています。

駒込土物店

■卸売市場の必要性と機能

青果物は、天気、気温、雨量、日照量などの自然条件によって収穫量が大きく左右されます。 青果によってはハウスを温めるために石油を使うので、石油価格が青果の価格に影響し、メディアで取り上げられた青果は需要が高まり価格に影響します。 ほとんどの青果は鮮度が落ちやすいため、長期保存が難しく、その鮮度によって価値が著しく変化します。 また、保存可能な青果であっても、それまでの貯蔵量によって価格は変動します。

特に最近では消費者の食のニーズが多様化し、小売店では豊富な品揃えが要求されています。 しかし、中規模スーパーであっても大きな貯蔵施設があるわけではありません。

そのため、消費者に新鮮な青果を提供するため、毎日の仕入れが必要になります。

そのような青果物の特性から生産者と買参人、あるいは消費者の満足する公正で妥当な価格形成と、鮮度を損なわないように迅速的な荷捌き等を行う必要があります。
さらに多種大量の品物を一つの場所に集め、集中的かつ能率的な取引を行うには、中央卸売市場が必要不可欠であり、 それを合理的に運営するのが中央卸売市場の青果会社です。

卸売市場には消費者に対して「生活必需品」である青果を消費者に安定的に供給する流通拠点として

【生産者へ販売先を確保】
【全国、あるいは世界中で生産される青果の受け入れ】
【適正な価格設定と様々な販売先への分荷・販売】
【生産者に代金を確実で速やかに送金】
【食品衛生法に基づいた衛生、品質管理】

という非常な重要な役割があります。東京豊島青果と豊島・板橋市場は時代の流れとともに形を変えつつ、これからも食のインフラとしてみなさまを支え続けます。